2010年 09月 30日
vol.7 「鹿踊りのはじまり」 |
9月11日(土) 読書会 天気堂にて
9月18日(土) 朗読会 小松寺にて 朗読;上野りんぷう
発表;さいさいみこ
<そのとき西のぎらぎらのちぢれた雲のあひだから、夕陽は赤くなゝめに苔の野原に注ぎ、すすきはみんな白い火のやうにゆれて光りました。わたくしが疲れてそこに睡りますと、ざあざあ吹いてゐた風が、だんだん人のことばにきこえ、やがてそれは、いま北上の山の方や、野原の行はれてゐた鹿踊りの、ほんたうの精神を語りました。>
風が語る「鹿踊り」のほんとうの精神、それは実際、賢治がすすきの原で眠りにおち、風から聞いた話であったのだろうか。賢治の「鹿踊りのはじまり」は、こんな美しい描写で始まり、静かに語られてゆくのである。
そこここがまだ開墾されず、手つかずの原野であったころ、嘉十は、おじいさんたちと、北上川の東から移り住み、小さな畑を開いて、粟や稗をつくっていた。あるとき栗の木から落ち、膝を痛めた嘉十は、食料と鍋を背負って、みんなと一緒に、泊まりがけで湯治に出かける。夕方、まっ白に光ったすすきの原で、嘉十は荷物を降ろし、栃と粟の団子を食べた。嘉十は、栃の実くらいの栃の団子を、そっと、うめばちそうの白い花の下に、鹿のために残していった。少し行って、嘉十はさっき休んだところに手拭を忘れて来たことに気づく。急いで引っ返した嘉十は、そこで数疋の鹿の群れに出会うのであった。
栃の団子を真ん中に、鹿たちは大きな環をつくりぐるくるぐるくる廻っている。しかし鹿たちが気にかけているのは、ひとかけの団子ではなく、どうも、嘉十が置き忘れた<くの字になって落ちている>白い手拭のようだった。にわかに嘉十の耳がきいんとなり、鹿の言葉が聞こえてくる。
生きものかもしれない、一疋の鹿が決心したように真ん中へ進む。停まって見ているほかの鹿たち。そろりそろりと手拭に近づく鹿。俄に跳び上がり、一目散に逃げ戻る。四方に散らばろうとする五疋の鹿たち。ぴたりと止まった鹿を見て、のそのそ戻るほかの鹿たち。きのこではない、どうもやはり生きものらしい。縦に皺が寄って、年寄りのようだ。次の一疋がこわごわと近づいて行く。今度は匂いを嗅いでくる。白と青のぶちの生きものは、柳の葉の匂いがする。三番目の鹿がそろりそろりと進み出る。その時ちょっと風が吹いて手拭がちらっと動いた。びっくりする鹿に呼応する他の鹿たち。気を落ち着け再び鹿は近づく。気味が悪くなり竿立ちになって逃げ帰る鹿。それは息もつかないが口もない、という。四番目の鹿がびくびくしながら近づく。思い切ったように、鼻を手拭に押し付けて帰ってくる。それは、柔らかく、ごまざいの毛よりも少し硬いという。汗臭い生きものだ。おどけものの五番目の鹿が近づく。手拭の上へ頭を下げたり、べろりと舌を出して嘗めて来た。怖くなった鹿は舌を出したまま飛んで帰ってくる。齧られたわけでも痛いわけでもない。舌を抜かれたわけでもないが、舌が縮こまってしまったという。味はない。ついに最後の六疋目の鹿が出て行く。もう心配はない、というふうに、ついにそれをくわえて戻って来た。鹿はみんなぴょんぴょんと跳び上がる。
手拭を真ん中に、円陣を組んだ鹿の舞踊がはじまる。走りながら廻りながら踊りながら。鹿たちは度々風のように進んで、手拭を角でついたり足で踏んだりする。嘉十の手拭は泥がつき、穴があく。だんだんと鹿のめぐりはゆるやかになり、今度は栃の団子をそれぞれ一口づつ食べてゆく。鹿は再び環になって、ぐるぐるめぐり歩きをする。
嘉十は自分までが鹿のような気がして飛び出そうとする。しかし自分の大きな手を見てだめだと思い、また息をこらして見ている。鹿のめぐりはゆるやかになり一列になって、はんのきの梢にかかった太陽を、拝むようにまっすぐに立つ。水晶の笛のような鹿の声。太陽とはんのきを拝み、まっ白なすすきを謳い、うめばちの花の愛おしさを謳う鹿たち。それから、鹿はみんな笛のように短く鳴いて、激しく激しく廻り出した。
冷たい北風がひゅうと鳴り、はんのきは砕けた鉄の鏡のように輝き、かちんかちんと葉が擦れ合って音をたてたようにさえ思われ、すすきの穂までが鹿と一緒に踊っているように見えたその時、嘉十はもう鹿と自分の違いを忘れて、
「ホウ、やれ、やれい。」と飛び出してしまう。
鹿は驚いて逃げ出す。嘉十はちょっと苦笑いをしながら手拭を拾って、西の方へ歩き出す。
<それから、さうさう、苔の野原の夕陽の中で、わたくしはこのはなしをすきとほった秋の風から聞いたのです。>
長くなってしまったが、これが、<わたし>が、風からきいた「鹿踊りのほんとうの精神」だった。
日本各地に伝統藝能として継承されている所謂「獅子舞」と、「鹿踊り」また房州にも存続する「羯鼓舞」の流れを追うのは、定かではないところがある。仏教的な意味合いを持つ獅子を、柳田国男は天竺発祥とし、西域亀慈国あたりからの流れを獅子舞の源流とみている。そして、その獅子舞の流れとは別のものとして、日本独自の鹿踊りを位置づけている。「しし」には、獅子(しし)と獣(しし)がある。どちらも音はシシである。そして、その獣のシシにも二通りがある。鹿踊りは文字通り鹿、房州の羯鼓舞では、猪となる。獅子と獣、日本語で同じ音であったために混乱したのではないか、というのが柳田国男の説である。
房州の羯鼓舞の中にも、この鹿踊りと似たような場面がある。ある異なる世界のものを、なんども行きつ戻りつしながら、足に触れたり、手で触れたり、それが何なのか検証し、ついにはそれを征服する、というような、そのような内容ともとれる踊りの場面がある。それは注連縄という結界を突き破ることであったり、弓で象徴化された<夜>もしくは<闇>の克服であったりするのだが、その舞いを成人になる為の通過儀礼の舞とも、私は解釈できるのではないかとも考える。房州の羯鼓舞には伝承として確かではないところもあり、この点は明言できない。
房州での羯鼓舞は、稲作における夏の雨乞いの意味であったり、五穀豊穣を祈願するものであったりする。しかし、狩猟で殺されたり、あるいは田畑を荒らすものとして殺生されたりした猪たちへの供養の意味もあったのではなかろうか。また、鹿であるならば、神と使いとされる鹿を招き、悪霊を祓う、という解釈も成り立つだろう。東北における鹿踊りも、そのように考えることも可能であろう。
花巻の鹿踊りはまだ見たことがない。写真等でみるかぎり、その意匠をこらした鹿の面や重々しい衣裳、ダイナミックな太鼓の音や踊りの力強さは、賢治が風から聞いたという、遊び好きな鹿の群れの、身も心も躍るような軽やかな優しさからは、ずいぶんと飛躍された感がある。賢治が生きていた時代の鹿踊りとはどんなものだったのだろう。今わたしたちが見ているものと同じなのだろうか、私にはわからない。東北の強烈な祭りの原点に、賢治が呼応しているのは、自然と人間が、動物と人間がまだ分ちがたく交感していた時の、原初の力を感じたからであろうか。
ユリアがわたくしの左を行く
大きな紺色の瞳をりんと張って
ユリアがわたくしの左を行く
ペムペルがわたくしの右にゐる
(中略)
ユリア ペムペル わたくしの遠いともだちよ
きみたちの巨きなまつ白なすあしを見た
どんなにわたくしはきみたちの昔の足あとを
白聖系の頁岩の古い海岸にもとめただらう
(小岩井農場 パート九より)
このペムペルとは、ペルム紀から創造された言葉だという。今から2億9900万年前の、ほ乳類が誕生する分岐点となった地質時代である。それは「黄いろのトマト」のペムペルとネリとしても登場する。遥か太古の地質時代のものを常に自分の友としていた賢治には、祭りとは、自然のただ中にとけ込み、融合することではなかったか。だが、すでに賢治は「黄いろのトマト」でも、その存在は、<かわいそう>なこととして認識され、この「鹿踊りのはじまり」でも、嘉十は、一度目は自分までもが鹿のような気がするものの、自分の大きな手がすぐ眼にはいり、だめだと思い、飛び出すことを断念する。しかし、鹿たちの踊りが佳境に入ると、ついには自分と鹿との違いを忘れて、飛び出してしまうのであるが、それは結果として鹿を驚かし、嘉十は我に戻ると、<にが笑い>をするしかないのであった。賢治は、この自然を謳い上げた童話の中でも、森羅万象に受け入れられた人間を謳わなかった。嘉十は鹿の踊りの環の中には入ることができなかったのである。
「はんの木(ぎ)の/みどりみぢんの葉の向(もご)さ/
ぢやらんぢやらんの/お日さん懸がる」
「お日さんを/せながさしよへば、はんの木(ぎ)も/
くだげで光る/鉄のかんがみ」
「お日さんは/はんの木(ぎ)の向(もご)さ、降りてでも/
すすぎ、ぎんがぎが/まぶしまんぶし」
「ぎんがぎの/すすぎの中(なが)さ立ぢあがる/
はんの木(ぎ)のすねの/長んがい、かげぼうし」
「ぎんがぎの/すすぎの底の日暮れかだ/
苔の野はらを/蟻こも行かず」
「ぎんがぎの/すすぎの底でそつこりと/
咲ぐうめばぢの、愛(え)どしおえどし」
「鹿踊りのはじまり」は、どの場面をとっても美しく、また、その方言の豊かな語感を基盤に、ユーモラスな描写は秀逸である。わたしがとくに惹かれるのは、上記の鹿たちの口上である。この美しい詞とリズムは何とも素晴しい。またこの場面は歌舞伎の口上を思わせる。一頭一頭が、それぞれ順番に、まず、水晶の笛のような細い声で、次はぴたりととまって、三番目は首をせわしく上下させ、四番目がうたうとすすきはまっ白な火のように燃え、五番目がひくく首をたれつぶやくようにうたいだすとみな、その他の鹿たちも首を垂れ、そして六番目の鹿が首をりんとあげてうたい、それからみんな笛のように鳴いてはねあがり、激しく激しく廻るのである。
何度も激しく廻るその舞踏は、わたしには遠いスーフィーの旋回運動を想起させる。すると、この舞踏の原点も、西域に源を発する舞踏の、無我の境地を思わせるのである。
森羅万象が謳うように、踊るように展開されるこの場面が、美しければ美しいほど、<大きな手>を持ち、にが笑いをして西の方に歩き出す嘉十は、どこか孤独な姿となって映ってしまう。それでも、賢治はその孤独を生きながらも、まだこの初期の作品には悲壮な影もなく、世界は限りなく美しい。
この日、花巻では「鹿踊り」が行われていた。
(さいさいみこ)
9月18日(土) 朗読会 小松寺にて 朗読;上野りんぷう
発表;さいさいみこ
<そのとき西のぎらぎらのちぢれた雲のあひだから、夕陽は赤くなゝめに苔の野原に注ぎ、すすきはみんな白い火のやうにゆれて光りました。わたくしが疲れてそこに睡りますと、ざあざあ吹いてゐた風が、だんだん人のことばにきこえ、やがてそれは、いま北上の山の方や、野原の行はれてゐた鹿踊りの、ほんたうの精神を語りました。>
風が語る「鹿踊り」のほんとうの精神、それは実際、賢治がすすきの原で眠りにおち、風から聞いた話であったのだろうか。賢治の「鹿踊りのはじまり」は、こんな美しい描写で始まり、静かに語られてゆくのである。
そこここがまだ開墾されず、手つかずの原野であったころ、嘉十は、おじいさんたちと、北上川の東から移り住み、小さな畑を開いて、粟や稗をつくっていた。あるとき栗の木から落ち、膝を痛めた嘉十は、食料と鍋を背負って、みんなと一緒に、泊まりがけで湯治に出かける。夕方、まっ白に光ったすすきの原で、嘉十は荷物を降ろし、栃と粟の団子を食べた。嘉十は、栃の実くらいの栃の団子を、そっと、うめばちそうの白い花の下に、鹿のために残していった。少し行って、嘉十はさっき休んだところに手拭を忘れて来たことに気づく。急いで引っ返した嘉十は、そこで数疋の鹿の群れに出会うのであった。
栃の団子を真ん中に、鹿たちは大きな環をつくりぐるくるぐるくる廻っている。しかし鹿たちが気にかけているのは、ひとかけの団子ではなく、どうも、嘉十が置き忘れた<くの字になって落ちている>白い手拭のようだった。にわかに嘉十の耳がきいんとなり、鹿の言葉が聞こえてくる。
生きものかもしれない、一疋の鹿が決心したように真ん中へ進む。停まって見ているほかの鹿たち。そろりそろりと手拭に近づく鹿。俄に跳び上がり、一目散に逃げ戻る。四方に散らばろうとする五疋の鹿たち。ぴたりと止まった鹿を見て、のそのそ戻るほかの鹿たち。きのこではない、どうもやはり生きものらしい。縦に皺が寄って、年寄りのようだ。次の一疋がこわごわと近づいて行く。今度は匂いを嗅いでくる。白と青のぶちの生きものは、柳の葉の匂いがする。三番目の鹿がそろりそろりと進み出る。その時ちょっと風が吹いて手拭がちらっと動いた。びっくりする鹿に呼応する他の鹿たち。気を落ち着け再び鹿は近づく。気味が悪くなり竿立ちになって逃げ帰る鹿。それは息もつかないが口もない、という。四番目の鹿がびくびくしながら近づく。思い切ったように、鼻を手拭に押し付けて帰ってくる。それは、柔らかく、ごまざいの毛よりも少し硬いという。汗臭い生きものだ。おどけものの五番目の鹿が近づく。手拭の上へ頭を下げたり、べろりと舌を出して嘗めて来た。怖くなった鹿は舌を出したまま飛んで帰ってくる。齧られたわけでも痛いわけでもない。舌を抜かれたわけでもないが、舌が縮こまってしまったという。味はない。ついに最後の六疋目の鹿が出て行く。もう心配はない、というふうに、ついにそれをくわえて戻って来た。鹿はみんなぴょんぴょんと跳び上がる。
手拭を真ん中に、円陣を組んだ鹿の舞踊がはじまる。走りながら廻りながら踊りながら。鹿たちは度々風のように進んで、手拭を角でついたり足で踏んだりする。嘉十の手拭は泥がつき、穴があく。だんだんと鹿のめぐりはゆるやかになり、今度は栃の団子をそれぞれ一口づつ食べてゆく。鹿は再び環になって、ぐるぐるめぐり歩きをする。
嘉十は自分までが鹿のような気がして飛び出そうとする。しかし自分の大きな手を見てだめだと思い、また息をこらして見ている。鹿のめぐりはゆるやかになり一列になって、はんのきの梢にかかった太陽を、拝むようにまっすぐに立つ。水晶の笛のような鹿の声。太陽とはんのきを拝み、まっ白なすすきを謳い、うめばちの花の愛おしさを謳う鹿たち。それから、鹿はみんな笛のように短く鳴いて、激しく激しく廻り出した。
冷たい北風がひゅうと鳴り、はんのきは砕けた鉄の鏡のように輝き、かちんかちんと葉が擦れ合って音をたてたようにさえ思われ、すすきの穂までが鹿と一緒に踊っているように見えたその時、嘉十はもう鹿と自分の違いを忘れて、
「ホウ、やれ、やれい。」と飛び出してしまう。
鹿は驚いて逃げ出す。嘉十はちょっと苦笑いをしながら手拭を拾って、西の方へ歩き出す。
<それから、さうさう、苔の野原の夕陽の中で、わたくしはこのはなしをすきとほった秋の風から聞いたのです。>
長くなってしまったが、これが、<わたし>が、風からきいた「鹿踊りのほんとうの精神」だった。
日本各地に伝統藝能として継承されている所謂「獅子舞」と、「鹿踊り」また房州にも存続する「羯鼓舞」の流れを追うのは、定かではないところがある。仏教的な意味合いを持つ獅子を、柳田国男は天竺発祥とし、西域亀慈国あたりからの流れを獅子舞の源流とみている。そして、その獅子舞の流れとは別のものとして、日本独自の鹿踊りを位置づけている。「しし」には、獅子(しし)と獣(しし)がある。どちらも音はシシである。そして、その獣のシシにも二通りがある。鹿踊りは文字通り鹿、房州の羯鼓舞では、猪となる。獅子と獣、日本語で同じ音であったために混乱したのではないか、というのが柳田国男の説である。
房州の羯鼓舞の中にも、この鹿踊りと似たような場面がある。ある異なる世界のものを、なんども行きつ戻りつしながら、足に触れたり、手で触れたり、それが何なのか検証し、ついにはそれを征服する、というような、そのような内容ともとれる踊りの場面がある。それは注連縄という結界を突き破ることであったり、弓で象徴化された<夜>もしくは<闇>の克服であったりするのだが、その舞いを成人になる為の通過儀礼の舞とも、私は解釈できるのではないかとも考える。房州の羯鼓舞には伝承として確かではないところもあり、この点は明言できない。
房州での羯鼓舞は、稲作における夏の雨乞いの意味であったり、五穀豊穣を祈願するものであったりする。しかし、狩猟で殺されたり、あるいは田畑を荒らすものとして殺生されたりした猪たちへの供養の意味もあったのではなかろうか。また、鹿であるならば、神と使いとされる鹿を招き、悪霊を祓う、という解釈も成り立つだろう。東北における鹿踊りも、そのように考えることも可能であろう。
花巻の鹿踊りはまだ見たことがない。写真等でみるかぎり、その意匠をこらした鹿の面や重々しい衣裳、ダイナミックな太鼓の音や踊りの力強さは、賢治が風から聞いたという、遊び好きな鹿の群れの、身も心も躍るような軽やかな優しさからは、ずいぶんと飛躍された感がある。賢治が生きていた時代の鹿踊りとはどんなものだったのだろう。今わたしたちが見ているものと同じなのだろうか、私にはわからない。東北の強烈な祭りの原点に、賢治が呼応しているのは、自然と人間が、動物と人間がまだ分ちがたく交感していた時の、原初の力を感じたからであろうか。
ユリアがわたくしの左を行く
大きな紺色の瞳をりんと張って
ユリアがわたくしの左を行く
ペムペルがわたくしの右にゐる
(中略)
ユリア ペムペル わたくしの遠いともだちよ
きみたちの巨きなまつ白なすあしを見た
どんなにわたくしはきみたちの昔の足あとを
白聖系の頁岩の古い海岸にもとめただらう
(小岩井農場 パート九より)
このペムペルとは、ペルム紀から創造された言葉だという。今から2億9900万年前の、ほ乳類が誕生する分岐点となった地質時代である。それは「黄いろのトマト」のペムペルとネリとしても登場する。遥か太古の地質時代のものを常に自分の友としていた賢治には、祭りとは、自然のただ中にとけ込み、融合することではなかったか。だが、すでに賢治は「黄いろのトマト」でも、その存在は、<かわいそう>なこととして認識され、この「鹿踊りのはじまり」でも、嘉十は、一度目は自分までもが鹿のような気がするものの、自分の大きな手がすぐ眼にはいり、だめだと思い、飛び出すことを断念する。しかし、鹿たちの踊りが佳境に入ると、ついには自分と鹿との違いを忘れて、飛び出してしまうのであるが、それは結果として鹿を驚かし、嘉十は我に戻ると、<にが笑い>をするしかないのであった。賢治は、この自然を謳い上げた童話の中でも、森羅万象に受け入れられた人間を謳わなかった。嘉十は鹿の踊りの環の中には入ることができなかったのである。
「はんの木(ぎ)の/みどりみぢんの葉の向(もご)さ/
ぢやらんぢやらんの/お日さん懸がる」
「お日さんを/せながさしよへば、はんの木(ぎ)も/
くだげで光る/鉄のかんがみ」
「お日さんは/はんの木(ぎ)の向(もご)さ、降りてでも/
すすぎ、ぎんがぎが/まぶしまんぶし」
「ぎんがぎの/すすぎの中(なが)さ立ぢあがる/
はんの木(ぎ)のすねの/長んがい、かげぼうし」
「ぎんがぎの/すすぎの底の日暮れかだ/
苔の野はらを/蟻こも行かず」
「ぎんがぎの/すすぎの底でそつこりと/
咲ぐうめばぢの、愛(え)どしおえどし」
「鹿踊りのはじまり」は、どの場面をとっても美しく、また、その方言の豊かな語感を基盤に、ユーモラスな描写は秀逸である。わたしがとくに惹かれるのは、上記の鹿たちの口上である。この美しい詞とリズムは何とも素晴しい。またこの場面は歌舞伎の口上を思わせる。一頭一頭が、それぞれ順番に、まず、水晶の笛のような細い声で、次はぴたりととまって、三番目は首をせわしく上下させ、四番目がうたうとすすきはまっ白な火のように燃え、五番目がひくく首をたれつぶやくようにうたいだすとみな、その他の鹿たちも首を垂れ、そして六番目の鹿が首をりんとあげてうたい、それからみんな笛のように鳴いてはねあがり、激しく激しく廻るのである。
何度も激しく廻るその舞踏は、わたしには遠いスーフィーの旋回運動を想起させる。すると、この舞踏の原点も、西域に源を発する舞踏の、無我の境地を思わせるのである。
森羅万象が謳うように、踊るように展開されるこの場面が、美しければ美しいほど、<大きな手>を持ち、にが笑いをして西の方に歩き出す嘉十は、どこか孤独な姿となって映ってしまう。それでも、賢治はその孤独を生きながらも、まだこの初期の作品には悲壮な影もなく、世界は限りなく美しい。
この日、花巻では「鹿踊り」が行われていた。
(さいさいみこ)
by tenkidou
| 2010-09-30 16:21
| ほらくま通信